2009年01月17日

アイム・ノット・ゼア

 ボブ・ディランを6人の俳優が演じる。
 ビートルズも、ニルヴァーナも
リアルタイムで知ることができなかった僕にとって
唯一今も生きている“海の向こうの巨人”の様に感じられる
ボブ・ディランという人物に興味が湧いて、
何かとっかかりが欲しかったので、この風変わりな伝記映画に目を付けた。
 結論から言うと、この映画は“ボブ・ディラン”を描いた
真っ当な伝記映画なんかではなく、だから
“ボブ・ディラン”について予備知識が皆無に等しい者にとって
この映画は何がなんだかわからない摩訶不思議なシロモノだった。

 なにしろ、6人の“ボブ・ディラン”は一人として
“ボブ・ディラン”を名乗らないのだ。
彼の少年時代を演じているのは、なぜか黒人の少年だし、
最後に登場するリチャード・ギアは西部劇の人っぽいし、
 
 唯一理解できるのは、モノクロで描かれるケイト・ブランシェットのパート。
フォークからロックへの転身。
それを“裏切り”と罵る人々。
 ケイト演じる“ボブ・ディラン”は
一つのイメージに縛り付けられることを拒む。
不敵な笑みで強がる姿は、性別を超えて格好いい。
ラスト近くの、不敵な、意味ありげな、その笑みに気づかされた。
 バックに流れるディランの音楽は
一つのジャンルにとどまらない。実に多彩なのだ。
 この映画のとりとめのなさ。
それは一つの成功に安住せずに常に新しい音楽へと歩んできた
“ボブ・ディラン”という人物に喚起されたイメージの集まりだからなのかな、と。

 ちょっと調べてみるとディランという人の言動には
一貫性がないことがわかった。
 「30歳以上の人間は信じない」と言いながらも、
60を超えた今も活動しているところとか。

 ある映画のワンシーン、一枚の写真、ふとした景色
あるいは出会った人々。
 様々なものから、なにか、イメージというか、創作の糸口というか、
断片的な物語のしっぽをつかむことがある。
 それらは、端から見ると、
そのきっかけとなったものとの関連が見えにくいことも多い。

 この映画は、“ボブ・ディラン”という
偶像性の高い、多彩な半生を、イメージの源泉とした切り絵のような、
だからこそ意味のとりにくい(もしかしたら意味なんてないのかも)
作品なのだと思う。
 それこそが、こんなにもへんてこで、謎めいていて、ばらばらなシロモノに
二時間以上も引きつけられていた理由であると、思う。
 
 ある意味で、この映画は
様々な人間が思い描いている
“ボブ・ディラン”という一人の人間そのものであるのだから。

 ますます“ボブ・ディラン”という人物に興味が湧いた、
 それだけは確かなのだ。


posted by B.B.Jim at 18:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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